髙井由子 LIFE STORY INTERVIEW

1988
全ての始まりは花との出会いから

Q.花に初めて興味を持ったのはいつですか?

15歳、中学生の時です。家の近くに素晴らしいいけばなを教えている先生がいるから習ってみたら、と母に勧められたのがきっかけです。その先生は近隣の学校の入学式や卒業式などの装花を手掛けていて、しかもそれがよく巷で見るような単純なものではなく、常に心を打つ作品であったので、保護者の間ではちょっとした有名人でした。その時は気軽な気持ちで門戸を叩きましたが、それがまさかこんな生涯の仕事に結びつくとは思いませんでした。人生ってどこに分岐点があるか分からないものです。
習ってみると、どうにも何をやっても馴染む、というか自然に体にスッと入ってくるような不思議な感覚がありました。先生のご指導もとても丁寧で、花だけでなく生徒に対しても大きな愛情を注いで下さったおかげもあり、驚くほど自分の中でどんどん上達している気になれたんです。 ただ、私はどうしても王道の作品を作るというのが性に合わなかった。もちろん、王道のものも数えきれないほど作りましたけど、たまに開催されるいけばな展などのコンクールで、他の流派の先生の隣で巨大な作品を作って唖然とされたり、宇宙をテーマに壮大な感じで活けて「なぜ生け花らしく活けないのか…」と母親に笑われたことも一度や二度ではありませんでした。別に奇をてらったとかではなく、花を通じて造作をしていくということと自分なりに真剣に向き合った結果、そういうことになってしまった感じでしょうか。

1990
フラワーアーティストとしての活動がスタート。

Q.仕事にはどのようにつながっていったのですか?

高校生になり、芸能関係の仕事に興味を持ちました。というのも、親戚に女優がいたり、テレビ局で仕事をしている人もいて、自分もぼんやりとそういう業界の仕事に就く、というイメージがあったんでしょうね。ある時親戚が、誰もが知るとある有名番組の装花を手掛けている知り合いがいるから、一度現場を見せて頂こうと誘ってくれたんです。そこに行ったときに、ガツンと衝撃を受けたというか、自分のやりたいことはこれだ、という確信めいたものを覚えました。番組は、いろいろな人が裏方で作り上げている、テレビに映っているのはその最後の一瞬だけ。なぜかその事実に強く惹かれました。もう、一目ぼれで恋に落ちたような感じです。自分が裏方として提供できそうなことが装花だったこともあり、導かれるようにあっさり就職を決め、卒業と同時に装飾を手がける会社に入社しました。

Q.ところが、初めは装花担当ではなかったそうですね?

「消えもの」と呼ばれる、ドラマで役者さんが食べているシーンなどに使われる料理を作るフードコーディネーターの仕事に携わりました。今では引退されたフードコーディネーターの第一人者と名高い上司について多くの現場を周り、いろいろなことを学ばせて頂きました。調理師免許も取得させて頂きましたし、自分の作った料理をたくさんの芸能人の方やスタッフさんが喜んで食べてくださる光景は楽しかったですね。

Q.そして、しばらくすると転機が訪れるのですね。

若かったこともあり、装花の技術に期待されて入社したわけではなかったんですよね。それまでも合間にアシスタントとしてお手伝い程度はあったのですが、メインではなかった。ある日、バラエティ番組で人手が足りないということで装花部門に駆り出され、初めてメインとして担当させてもらえる機会がありました。その時に手掛けた作品が運よく評判になり、ありがたいことに次々声がかかるようになりました。
番組内容に沿うようにオブジェを制作したり、生花を活けたり、小さな作品から脚立に上ってもギリギリ届くか届かないかの巨大な作品まで、無我夢中で取り組んでいる時代でした。当時はテレビ局も全盛期で予算もふんだんにあり、Theテレビマンといった風情の方々と、今ではありえないような豪華な作品を作らせてもらうことができ、とても恵まれた環境だったように思います。
上下関係も厳しく、突然呼ばれて2日間徹夜で作品を仕上げたりとかそんなこともザラにあってとにかく激務でしたけど、今の自分があるのは、間違いなくこの時期を乗り越えたからです。

2005
独立、そしてリスタート。

Q.15年勤め、独立を決意します。

はい、15年続けて何かやりきったような気持ちになることが多くなりました。会社員である自分は、どうしても不文律を破ることができない。体裁ばかりを気にして自分をさらけ出すことができない。そして「前例がないからNG」と言われることへの違和感。前例がなきゃダメなんて芸術の世界では矛盾する考えですよね。前例を打ち破ってこそ新しいものが生まれるのですから。でも会社の仕事である以上、作品も事情をわきまえた上で作るわけで、真の自由を得ていない。上からも下からも突き上げられて、立ち止まる時間さえもない中で、悶々と考え続けているうちに、新たな目標というか使命感のようなものが自分の中に芽生えるのを感じたのです。がむしゃらに突っ走ってきたけれど、そろそろ自分の人生とじっくり向き合いたい、花に対してももっと違う次元の表現ができるのではないか、というような焦燥に駆られるようになりました。そして、ありのままの自分でいることへの憧憬。花は咲き方を迷わないんです。花は生き方も迷わない。この清く潔い存在をどうしてあげるのが最善なのか。
また、テレビの仕事では、番組が終わると当然花は廃棄されます。急いで小分けにしてスタッフや出演者に配ったりして喜んでもらったりすることもありましたが、それでもまだ十分に美しいまま捨てられゆく花たちを見て、罪悪感のようなものに苛まれ、心の中で「ごめんごめん」とひたすら謝る日もありました。それがもしかしたら今最も得意とするドライフラワースラッグのような永く楽しめる作品に反映されているのかもしれません。
そんなこんなで現状を打ち破ろうと独立を決意したわけです。立ち上げたばかりの頃は期待半分、不安半分で昔の仲間にも助けて頂きながら、刺激的な時間を過ごすことができました。今まで取り組まなかったジャンルの仕事にも積極的に働きかけ、様々な人々と出会ってネットワークを構築し、それまでの会社勤めでは感じたことのない、解放感や孤独感、制約に縛られない自由な作品作りに、寝食も忘れて没頭できる喜びに胸がいっぱいだった事を今でもよく覚えています。

2009
夢だった海外での個展

Q.独立したらやりたいことの一つが個展だったそうですね。

自分の作品を発表する場としての個展開催は、アーティストならば誰もが思い描く夢だと思います。私は、海外の人が自分の作品にどう評価を下すのかが知りたかったし、こうした芸術が国を越えて通用するのかを見てみたかった。日本の和と現地の洋を融合させたらどうなるだろうというワクワクした思いもあり、和傘や千羽鶴など最低限の素材だけ持って残りの資材は現地で調達して制作しました。市場にあるものも花も何もかもが新鮮でインスピレーションに困ることはなかったです。

Q.現地の方の反応はいかがでしたか。

感性の豊かな人が多く、また芸術に対する敷居の低さを感じました。日本だと、ギャラリーに足を踏み入れるのってちょっと勇気がいりませんか?ロンドンでは、その辺のおばちゃんが八百屋を覗くみたいに気軽に見に来てくれる。通りすがりの人が、ふらっと来て、次の日は友達を連れてきてくれたり。皆さんリアクションも激しいので、手放しで褒められる気恥ずかしさはありましたね。現地で手に入れた桜を使い、窓から流れ込んでくるような川を表現した和の作品はやはり人気がありました。口コミが広がって、最終日にはおかげさまで多くの人で賑わいました。予定になかった雑誌社の人も取材に来てくださったりして、夢のような時間でしたね。

Solo exhibition in London
2014
独立してから全てが順風満帆とはいかず、思い悩む日々。

Q.アーティストとしての顔、経営者としての顔、その両立に悩まれたそうですね。

最初のうちは楽しいが勝ったのですが、進んでいくうちに経営という壁が立ちはだかるんです。当たり前ですが、経済活動がうまくいかなければ材料費もままならないわけで、好きな作品は作れなくなる。アーティストとして生きたいのに、経営者として会社を回さなければならないのです。初期に感じた解放感が薄れ、会社員時代よりももっと心が、作品が縛られるようになりました。約10年に渡り、苦しみもがく期間を過ごしました。経営者のセミナーにも足繁く通ったし、商業主義よろしく売れそうな作品を作ることにシフトしてみたり…こんなはずではなかった、会社員にいっそ戻ろうかと考えた日々もありました。

Q.そんな中、銀座でも個展を開きます。

迷った中での開催でした。自分の心をより深く知るためのいい機会になったと思います。私は、いろいろなことに縛られていましたが、自分の心を縛っていたのは自分自身だったと気づいた。なんでもっと自分を信じ、自分を愛してやらなかったんだろう。そんな思いがする個展でした。花と動物というコンセプトはとてもしっくりきたし、その時代に感じた想い、価値観などは表現したつもりだけれど、自分の軸がどこかぶれていた。その戸惑いが作品に現れてしまったと思います。それなりに評価は得ましたが、私にとっては全てのパワーを注ぎ込めなかった、ゴーヤみたいに口の中に苦みが残るような内容でした。「葛藤」という作品があるのですが、草木が縦横無尽に手を伸ばし無限へと吸い込まれていく。まさにこの時の自分の心の中もこんなもがいている状態だったように思います。

《葛藤》
2020
doscoからtrescoへと生まれ変わり、新たな一歩へ。

Q.社名を変え、本当の再出発はここからと。

米心理学者のレオン・フェスティンガーによって提唱された考え方に「認知的不調和」というものがあります。人間は、いつも自分の考えや態度と自分の行動が一致しているとは限りません。その一致していない状況というのが自分にとっては非常に不愉快なので不愉快じゃないように無意識に変えているというものです。例えば浮気や暴力をふるう恋人といる時に「こんな恋人は嫌だ」と思っているけれども、実際には別れていない状況を想定してみてください。「それでも好きだから」「この人は、私じゃなきゃダメ」と自分の嫌という感情に蓋をし、考えそのものを都合よく変えるというものです。私、まさにこれだと思ったのです。私は自分を都合よく経営者に合うように捻じ曲げていた。本当の目的は何だったか?私は、花ともっと真剣に向き合うつもりじゃなかったのか?経営者である前にアーティストであるべきなのではないか?と。
次のステージへと進めていく時期だと感じていた時に、trescoで現取締役を務めてくれている綱川敦子さんと出会い、これが私の人生を変えることになりました。彼女はかけがえのない友人であり、私の心の機微を驚くほど正確に汲んでくれて、経営の全てを任せることができたのです。おかげで、今までになく創作活動に没頭できるようになりました。

Q.昨年には空間装飾事業「空間ヨシコ」も立ち上げられましたね。

もともと、テレビ番組や映画、イベント会場などではインスタレーションがメインというか、空間として俯瞰したときにどういう作品を作り、どの位置に置けば素晴らしくなるか、その空間が‘整う’かを常に念頭に置いて作品を考えてきました。つまり、空間丸ごと作品とでもいいましょうか。これをオフィスやご家庭に取り入れてみたいと考えて下さった方がいて、その方々のところで装飾を行ったところ、大変に喜んで頂けたので、もっといろんな方に気軽に頼んで頂きたいなと思い事業として立ち上げました。これまでにご自宅はもちろん、温泉施設やエステやエクステサロン、IT系オフィスなど様々な分野の方にご利用頂きました。毎回それぞれの空間やそこに既にあるもの、依頼して頂いたご本人に着想を得て、生活導線なども鑑みながら作品作りをしています。 (空間ヨシコ

飲食店様 空間装飾
2021-
花、作品への想い、つないでいく心。

Q.花は髙井由子にとってどのような存在ですか。

身体の一部とでもいいましょうか。無下に千切られれば、痛みを感じるくらいには。そして自分自身も語りかけてもくれる存在です。
花っていつから愛されてきたと思いますか。すごいですよ、原始人が花を集めてお墓に手向けたかもしれない痕跡が発見されているそうです。スイレンなどが古代エジプトで好まれたことは壁画などから分かっていますし、人間は花を愛する心、花そのものが遺伝子に組み込まれているんじゃないかというくらい途方もない存在だと思うのです。時代とともにその愛で方は変わっていきます。ただ、眺めるところから切ったり植えたりして集めることになり、壁画に描いてみたり、神話に登場させてみたり、宗教的なシンボルになったり、絵画になり、和歌に詠まれ、装束になり、色の名前になり、生け花になり、品種改良され、結婚式で飾られ、アートになり、PCを覗けばモチーフとしてアイコンなども使われ、今やプロジェクションマッピングと共演してみたりと、花の歴史にもいろいろあるわけです。そして令和になった今、私はこの時代だからこそできる花の新しい表現の可能性を探し、その感覚の切れ端を心のままに手繰り寄せ、新しい花の歴史へと日々挑戦しながら作品を作る喜びを感じています。

Q.作品はどのようにして生まれるのですか。

普段見ているもの、感じているもの、出会った人、その内面、ニュースや世論、価値観など今共に在る森羅万象からインスピレーションを得て創作に生かしています。朝、皇居の周りを散歩したりするのですが、その時に落ちていたユリノキの実を見た時、なぜかそのうちのひとつと心が通った気がしたのです。そこで猛烈に作品が作りたくなり、それに合う素材はないか市場を探し回り、制作をしたこともあります。流木を探しに嵐の後の海岸に早朝から出向いて1日中拾ったり、気になる植物があると噂に聞けば山野に分け入ったり、自然の中から素材を探すことも多々あります。それこそ、見かけた水道管に妙にひかれて、頼んでカットして分けてもらったことさえあります…人の家の水道管に何やってんだっていう(笑)
他にも、作品を頼んでくださった方の趣味や性格・人柄などを投影することもあります。
作るときは、構想を練るというよりは手が勝手に動くという方が正しいかもしれません。宇宙の意志が私に作らせる、なんていうと大袈裟すぎて語弊がありそうですが、気分的にはそういったいわゆるフロー状態にあります。考えずとも、次に何をしたらいいのか分かっているような感じです。逆に言えば、手が動かないときは何をやってもどうあがいても無理で、何日も進まないこともあります。と思えば、ふと目にした美しい夕焼け空や、何か喜ばしいニュースが流れてきただけで急に手が動き始めることもある。
日頃の生き方が作品に現れると身をもって感じているので、人を批判せず、雑音に耳を傾けず、正々堂々と生きること心がけています。私の場合は負のエネルギーを少しも花にぶつけたくないのです。花や素材へのリスペクトを欠かさず、作品を見る人が少しでも幸せになって欲しい、作品から前向きに生きるエネルギーを受け取って欲しい、花があなたに語りかける言葉を感じて欲しい、そう想いを込めて作っています。

Q.夢はありますか。

低迷する花業界そのものをなんとかしてもっと盛り上げたい、積み重ねてきた自分自身の経験や創作活動を後進に伝えていきたい、という気持ちがいつからかとても強くなり、フラワーアートスクールを開くことが目下の目標です。誰にでも芸術家足りうる素質というのは眠っていると思うのです。花に関して言えば、ただそれは資格を取るだけでは目覚めない。例えば、お寿司を握るという行為。「酢飯にわさびを塗ってネタをのせる」というのは単純で誰にでもできますよね?でも、それだけでは美味しい寿司は握れない。「シャリ炊き3年、合わせ5年、握り一生」といわれるほど時間のかかる修業なわけです。花の世界も同じです。花の言葉を感じ、それを受け止めた上で自分の思い描く景色をどこまで具現化できるか?が大切だと感じているので、そういった目に見えない部分を一緒に考え、感じ、伝えていくスクールにしたいと思っています。これは、既に計画がスタートしていて、叶いそうな段階の夢です。
更に先は…そうですね、東京ドームくらいの大きなイベント会場でスクールに通ってくれた皆さんと大規模なフラワー展を開催したいです。そして、ロバート秋山さんにクリエイターズ・プロファイルで真似してもらえるようなアーティストになることかな(笑)というのも冗談としてはありますが、まずは自分の作品が末永く愛して頂けるようになることでしょうか。私には子供がおりません。そんな私にとってすべての愛情を注ぐ子供は作品そのものなのです。作品が良い方のところへ嫁ぎ、愛されることが私にとってこの上ない幸せであり、また夢なのです。